ハーバードER記

Ars longa, vita brevis.

3/18 搬送

緊張しているのか、あまり眠れない。3−4時間で目が覚めてしまう。

S先生の診た朝いちの患者は胸痛。顔色が悪い。心電図もなく、色も悪いことから、市民病院に搬送することに。この診療所でできることはアスピリンしかない。ちょうど僕が朝の市民病院meetingに参加する予定だったので、タイミングが良かった。結果的に10分以内に搬送。いいチームプレー。


到着後の心電図ではなんと、前壁中隔STEMI.やはり顔色は大事。早速カテとなった。
この日、東京より10弱の大学病院からそれぞれ1−2チームが参加。そうそうたるメンバーのようだが、人事に疎い自分にはそのありがたみが判らず。今朝のmeetingは会議室で(昨日までは駐車場のホワイトボードだった)。50人ほどでごった返す。コマンダーにより、気仙沼を10区ほどにわけ、そこに1チームずつ割り振る案がassignされる。TMATグループからも、受け持ち地域の現状報告をする(僕は一時所属なんだけど)。


避難所に帰ると、2件の精神科コンサルト?が入る。
一人は統合失調症なのだが、薬の自己管理ができていない上に、処方内容が判らないとのこと。これは病院と衛星電話で話し処方をget。投薬は診療所でチェックリストを作り看護さいどで管理することとした。本人と話してみると、状況故に不安が強そうだが、入院の適応ではないと判断。MGHで大量に診ている精神科救急患者の経験が活きた?

もう一人はOCDの患者さん。不安が強くなるとコントロールがつかず。本人もコントロールがつかなくなり、同室が介護の必要な高齢者であることから、公衆衛生的な観点からも入院が必要と精神保健衛生師さんとコンセンサス。ただし入院は近くの精神病院ではできないため、紹介状をもらい、2-3時間離れた病院へ行くこととした。

その後、精神科患者さんを2時間はなれた病院まで搬送。紹介状の効果か、すんなりと入院させてもらえる。このような後方支援があるからこそ、災害医療がある。患者さんも安心したようだ。患者さんのお母さんはとても荷が下りたようで泣いてしまった。心配だったのだろう。


帰路、避難所の保健師さんとじっくり話す。
初日は遺体確認に入りとても耐えられなかったそうだ。その後もTMATが来るまでの4日間は不眠不休。我々がこなければ、あと1日で心が折れていたと言って感謝された。こんな自分でも少し役にたてたのだろうか。

今は忙しすぎて気も張っているのだろう。しかし、彼は被災者であり、それを支える医療者でもある。きっと彼自身も精神的ケアがいる。彼も家を流された。しかし家族は幸運にも無事とのこと。僥倖にもかれの職場も全員無事だったそうだ。(彼は広域介護センター職員の一員だ)


帰路、甚大な被害を受けた南三陸町を通って帰る。人口18,000の街が完全に消えてしまっている。言葉で表現できるものではない。まるで写真でみた原爆投下後の広島、長崎のよう。気仙沼で家を流された保健師さんまでもあきらめがついたというほどなのだ。とても落ち込む風景だ。この復興には10年単位の時間がかる。僕たちは長期的に何ができるのか考えたい。


この日は、インフルエンザ対策をS先生と考えた。まだ疑い症例は出ていないが、このように人口密度の高い避難所でインフルエンザや感染性胃腸炎がおこると蔓延をとどめるのは困難だ。データはないが、fluワクチン接種率も低いのではないかと保健所からの情報だった。ましてや、リソースもない。隔離する部屋も、スタッフも、手洗いする水も石けんも決定的に不足している。できることをやるしかない。Flu疑い症例(診断キットももちろんなし)は緩やかな隔離の方向でガイドラインを作成した。われわれ医療/看護サイド、TMATリーダーシップ、避難所リーダーシップ、保健所ともコンセンサスをつくりガイドラインの作成。アルコールによる手洗いの徹底。万が一、fluが出た場合蔓延を防ぐのは困難だが、high riskや重症群に対して抗ウイルス薬が届くまでの時間稼ぎができるかもしれないと考えた。我々のいる間には疑い書例も出なかったが、現在はどうしているのだろうか。現場は、限られたリソースと情報の中でこのような責任のある意思決定を迫られる難しい場所だ。


ここ2-3日は、避難所サイドから「余った」と好意での朝食・夕食をいただいている。確かに1200人の昼食にするには余っているのだろうが、少し申し訳ない気持ちもある。でも暖かい汁物を感謝していただく。
かれらの朝食・夕食はそれぞれ、握り飯一つ、イチゴ数個、それに汁物だ。水だって一日1-2Lなのだ。日々食料事情は改善しているが、まだ十分とは言えない。