ハーバードER記

Ars longa, vita brevis.

3/15 気仙沼へ

T先生の先遣隊が4台で5時に出発。軽装備で気仙沼を目指す。フットワークが軽い。海沿いは壊滅的とのこと、そのなかでも気仙沼が悪いとの情報で、そこに向かう方向。朝食を食べる。ちらし寿司のもとのはいった暖かいやつ。これでも上手いものは上手い。


8時にさらなる4台の車に分乗。僕は神戸徳洲会車にのりこむ。数日分の食料、水、毛布と私物を持ち込んだ。

仙台を発ち、まずは気仙沼の南方の本吉へ。
ここは海から3kmはなれていても川沿いは津波で破壊されている。海岸側は山で守られていたのに。。。川を津波が逆流し、山を回り込んで津波が侵入。こんなこと、想像できたはずがない


病院も一階は水没、建物を見る限り、2mほどの津波だったようだ。CTスキャンも水没。ここでは2Fで入院加療を継続させながらERも立ち上げている。素晴らしいハイブリッドだ。
ここでさらに情報収集。


我々は、人口8万人の気仙沼市南 階上地区の避難所に向かう。
海沿いの道は寸断されていて使えない。山道を行く。途中、壊滅した街。津波の爪痕。
Green or black tagというのが理解できる。これではred tagはそうはいないはずだ。


午後、避難所に到着。1200人が住む。水道、ガス、電気といったライフラインはなし。
ただコミュニティとか勤勉な中学生(チームワークがとれておりよく組織化している。炊事、配膳、援助物品の運搬、掃除など、この避難所のほどんどのことを担当)といった貴重なsocial capitalが生きている。皆さん、家も流され、仕事道具の漁船や養殖を流され、家族を失い、それでも非常に明るい避難所で驚く。日々細かいことでcomplainしていた自分がとても恥ずかしくなった。


早速、保健室をかりとり、そこに即席診療所を作る。
トリアージ、診療ブース3つ、ベッドx4。アメフト試合のfirst aidよりよっぽど限られた場所と、薬箱。せめて薬箱や救急カートはもう少し前準備しておきたかった。

できるだけ身軽にしてフットワークを軽く、とにかく人を前に出して行くという戦略も非常に大事であり、それは重装備では失われる。しかし救急カートはもう少し準備できたところであろう。このような緊急事態では人間の記憶力、判断力の想定を超えるeventが多く発生する。ゆえに事前からマニュアルやチェックリストが役に立つはずだ。たとえば緊急カートはあらかじめ大きな箱に詰めておく、一人当たりの水、食料、毛布の数を規定しておく、といった準備は必要だ。Atul Gawandeのcheck listにも通ずるか。しかし、これらの災害用物資を千葉県の災害本部に備蓄しているT会は偉い。ここまでしている病院グループは日本では少ないはずだ。


それから3チームで避難所内の巡回。体育館に行く。地震は卒業式の前日に起きた。卒業式の式辞が飾ってあった。そしてそこに被災した中学生が住んでいる。
体育館に600人いる。その半分の300人ほどをまずは把握。精神病、慢性疾患を持つ高齢者、脳高速後の患者さんなど、慢性疾患多し。フォローが必要な人を把握できた。この方々のリストを作り、翌日からの診療に活かす。しかし子どもたちの元気なこと。


我々が新参の外部からの闖入者であることから、いきなり、「はい医療を提供します」という言うわけにはいかない。刻々と変わる状況、限られた状況、限られたリソースをお互いに有機的に結びつけるために、ステークホルダーと頻繁にmeetingを持つことが大事だ。ここでは体育館に救護所を持つ地元保健師さんと、この避難所を取り仕切る市会議員さんがそれ。今後もこの方たちがキーとなった。


先遣隊はさらに北上し壊滅的な被害を受けた陸前高田を目指すが、道が遮断され行けず。情報収集のため陸路、盛岡をめざし情報収集をするとのこと。

夕食は缶詰。援助隊は自給自足が原則(限られた避難所の食料や水を頂く訳にはいかない。この人たちだって一日2食。水は1-2Lしかもらえない)。

福島原発で900mSvを観測したとの情報がはいる。大変な線量だ。東電は「ただちに」健康に影響はない、としているけど、「10年後以降」の問題は明らかにしていないのだろう。今後風向きによって外的被ばくが問題になるかも。とりあえずは雨/雪にあたらないこと。当たったら服を脱ぐことが大事。それで90%は振り落とせる。一応、あったイソジンガーグルをちょっと飲んでみた。とてもまずかった。

医師はシフトを組み働くことにした。僕は日勤。早めに床につくことに。畳(これがあってラッキーだった)に毛布一枚を敷き就寝。それでも死んだように寝た。